5月14日、バルチック艦隊はカムラン湾を出港した。連合艦隊はバルチック艦隊が19日にバシー海峡を通過したという情報を得たが、以降は所在がつかめなくなった。このときバルチック艦隊は長時間の演習や石炭の積み込み、さらには1隻の機関不調に時間を取られていたのだが、連合艦隊ではバルチック艦隊が太平洋から北海道へ向かった可能性も想定せざるを得なくなり、次第に焦り始めていた。24日に至り、東郷は大本営に対して北海道への移動をほのめかす電報を送っている。大本営は慎重を期す旨の返電を送り、東郷は26日正午までに移動すると返電を重ねた。
26日午前零時過ぎ、バルチック艦隊随伴の石炭運搬船6隻が上海に25日夕方に入港したという情報が大本営に飛び込んで来た。運搬船を離脱させたのは、航続距離の長い太平洋ルートを通らないことの証明でもあった。この情報によって連合艦隊は落ち着きを取り戻し、対馬海峡でバルチック艦隊の到着を待った。もし運搬船の上海入港が1日遅れていたら、東郷は艦隊を北海道に向けていたかもしれない[7]。
1905年5月27日午前2時45分[8]、九州西方海域203号地点にて連合艦隊特務艦隊、艦長成川揆大佐指揮の仮装巡洋艦「信濃丸」がバルチック艦隊の病院船「アリヨール」の灯火を夜の海上に発見した。接近して無灯火航行中の他の艦を多数確認し、4時45分、第一報にて「敵艦見ユ」を意味する「タタタタ(実際はタの連送)」で始まる「敵艦203地点ニ見ユ0445」を打電した。
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信濃丸は6時すぎまでバルチック艦隊に同航し敵艦隊が間違いなく対馬海峡を目指している事を確認してから、警戒任務のために近くにいて偵察に駆けつけた巡洋艦「和泉」と交代後、敵に発見されることなく離脱した。「和泉」は6時に引き継いでから7時間に渡り敵の位置や方向を無線で通報し続けた[6]。
戦闘 [編集]
本日天気晴朗ナレドモ浪高シ [編集]
「信濃丸」が夜間に病院船「アリヨール」を発見できたのは、ロシア艦隊で1艦だけ「アリヨール」が灯火管制を守っていなかったためであった。バルチック艦隊は、「信濃丸」が電信で通報していた間も、砲撃を加えないばかりか電波妨害を行なわなかった。強力な無線機を積んでいた「ウラル」艦長の妨害電波発信許可に対してロジェストヴェンスキーは「日本側の無線を妨害するな」と命令した。日本艦隊はこのために継続的な通報を受けることができた。また、「信濃丸」は夜間とはいえロシア艦隊に並航して観測を行い電波を発射し続けていたが、ロシア艦隊からは発見されなかった[9](当時は無線方位測定器の実用化以前)。
5時05分、連合艦隊全艦艇に出撃が下令された。連合艦隊は大本営に向け「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と打電した。これは、海が荒れて計画していた連繋水雷作戦[10]が行えないので、砲戦主体による戦闘を行うの意とも言われる。
連合艦隊集結 [編集]
10時には最初に駆けつけた連合艦隊第5・6戦隊がバルチック艦隊を確認した。ロシア側も、夜明けから日本の「和泉」やその後の第5・6戦隊を確認していたはずだが、11時すぎに初めてバルチック艦隊のロジェストヴェンスキー中将の命令で威嚇のための砲撃を行った。日本側も多少の砲撃を返すが戦闘状態を避けて、常に距離を保った。双方に1発の命中弾もなかった。
日本の第3戦隊の海防艦3艦「厳島」「松島」「橋立」と装甲巡洋艦「鎮遠」がバルチック艦隊の前方を横切った。その後、第3戦隊の第4駆逐隊の駆逐艦4艦「朝霧」「村雨」「白雲」「朝潮」がバルチック艦隊の前方を距離を保ったまま横切った。海防艦や駆逐艦側では敵艦隊の正面から方向を測定することで敵針路を正確に掴む、単なる偵察行動だったが、ロシア艦隊は回避運動に入った。ロシア側が針路の前方海域に機雷が撒かれた場合の危険を避けたという説がある。この時の艦隊運動がバラバラで、もともと2列縦隊であった隊列はいつのまにか3列縦隊となり巡洋艦部隊は後方に遅れた。後日、日本の主力艦隊の多くの水兵はロシア艦隊を初めて見たときの印象を「敵はダンゴでやってきた」と語っている